愛される喜び
「わたしの目には あなたは高価で尊い わたしはあなたを愛している」(聖書)
かつての欧州の孤児院のお話です。
乳飲み子をひとりずつ抱きしめてミルクを与えた場合と、大勢の乳飲み子を、ひとりが数名受け持ち、機械的に保育した場合では、数年後、健康状態や発育状態に顕著な差がみられたそうです。ミルクの分量や日光を浴びる時間など全ての条件は同じでした。ただ受けた愛情に差があったのです。米国のある小児科医は、診察をし、薬を処方した後、必ずカルテにひとつの決まった言葉を書くそうです。それは、薬だけではなく「この子には三時間ごとの愛が必要」という言葉だそうです。
これらのことから何が言えるのでしょうか。
それは、人は皆愛されなければならないということではないでしょうか。
経済的に恵まれていて、何の不自由もないと思われるのに死を選ぶ方もおられます。
ところが、逆境の中でも、生き生きとされている方もおられるのです。
「私は愛されている。必要とされている」という思いが、人に力を与え、人を生かすのではないでしょうか。
近年、栄養補助食品やサプリメントに注目が集まっております。健康な肉体のために、必要なカルシウムやビタミンなどを、摂取することができるからでしょう。
お店で手軽に購入することができるのです。
しかし、私たちには、肉体の栄養以上に、心の栄養が必要なのではないでしょうか。
たとえば、お店に「愛」というサプリメントが売っていて、それを飲めば「愛されている」という満足感を手軽に得られるのであれば、それは本当に素晴らしいことでしょう。しかし、実際には、心の栄養は肉体の栄養分を補給するのと同じようにはいかないのです。
それではこの「愛される」という必要不可欠な心の栄養分はどうすればいいのでしょうか。
冒頭の聖書の言葉にご注目下さい。
神様の愛が私たちにひとりひとりに注がれているのです。私たちは神様の愛を知ることによって、心が豊かに潤ってくることが分かるのです。
イギリスの諺に「1ペニーの愛は1ポンドの法律にまさる」とありますが、愛される喜びこそが、人を健全に、豊かにするのではないでしょうか。
毎週日曜日、教会では聖書のお話がなされております。是非お近くの教会にお越し下さい。
グレース神戸バプテスト教会 牧師
本当のクリスマス
クリスマスソングが 流れ始める初冬の頃、 赤を基調としたその華やかな装飾や雰囲気は、寒さの厳しい中にあっても、 私たちの心を明るくしてくれるものです。 ところが、そのルーツであるクリスマスの最初の夜には、華やかな飾り付けも、暖かな暖炉も、そしてパーティやご馳走もありませんでした。 むしろ、 全くと言っていい程、その逆で、ベツレヘムという街から離れた田舎の村のとても寂しい場所での出来事でした。 灯りもなく、家もなく、本当に何もない寒い夜のことだったのです。
旅をしていたヨセフとマリヤは、その夜、宿を探していました。 マリヤのお腹の中には、今にも生まれそうな赤ちゃんがいましたが、 どの宿屋もいっぱいで、 泊まる部屋は、ありませんでした。寒空の中で、 やっとのことで見つけた屋根付きの空間は、 何と家畜小屋だったのです。 その夜マリヤは、そこで男の子を産み、その子に、イエスという名をつけました。
聖書には、 救い主が、この年に、ベツレヘムという村でお生まれになることが 予め記されておりました。 それだけではなく、この方は、その生涯において、 全く罪を犯すことがなく、 最後には十字架で死なれることまでが書かれていました。 そう、 何もない家畜の小屋で生まれた このイエスは、聖書に預言されていた神が人となったキリスト(救い主という意味)だったのです。
その救い主であるイエスキリストの生涯は、始めから終わりまで、貧しく見栄えのしないものでしたが、その周りは、いつも多くの人で溢れていました。 それは、イエスキリストの中に、人に最も必要な愛と希望があったからです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
神であるイエスキリストは、このようにおっしゃり、全ての人をありのまま受け入れ、愛されました。 人々を無条件に愛し、否定することはありませんでした。 このようにありのまま愛されるという経験は全ての人に必要です。 人は愛されていない、必要とされていないと思うと、どんなに豊かな環境であっても、生きることがむなしくなり、最悪の場合、生きることをやめてしまいます。 しかし、その反対に、人は愛されると心が温かくなり、自然と他の人にも優しくしたくなります。 また、自分に自信と誇りを持つことができ、どんな苦しい境遇でも、生きる力を失うことはありません。ですから、愛されるということは、人にとって必要不可欠なことなのです。
神様は、 私たちが生きるために必要な太陽の光や水や空気を備えて下さいました。 毎月の電気代のように神様から太陽の使用量の請求書が届いたら、 その価値の大きさに、 おそらく払える人はいないでしょう。 人間が生きるために必要で、 なくてはならないものは、 実は全て神様が無料で下さっているのです。 愛も同じです。 人は生きるためには愛されなければなりません。 その本当の愛が、 私たちを救うために人となってこの世に来られ、あなたの身代わりとなって十字架で死なれたイエスキリストの内にあるのです。 その愛は太陽や空気と同じように、今この時も、無尽蔵に誰にでも注がれているのです。
現代のクリスマスには、煌びやかな光や、 美しいデコレーションがありますが、 そこに愛されているという喜びがなければ、 その飾られた光が、あまりにも寂しいのではないでしょうか。
最初のクリスマスは、何もない寒い夜のことでした。 しかし、そこには、人が生きるために必要な愛があったのです。 この冬、お近くの教会で、神の愛についてより詳しく知って頂くことで、本当のクリスマスをお迎え頂ければ幸いです。
グレース神戸バプテスト教会 牧師
無条件の愛
しかし私たちがまだ罪人であったとき キリストが私たちのために死んでくださったことにより
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます
教会に行って、初めて無条件の愛というのを知り、感動しました。それまでは、一定の条件を満たさないと受け入れてもらえないのが、普通だと思っていました。大学受験では、要求される点数を満たすことができず、失敗を繰り返しました。人間関係でも、受け入れてもらうために、周りに合わそうと、現代的に言うと空気を読むと言うんでしょうか、そのように気を使って生きていた毎日だったのかもしれません。
ですから、神様のことを考える時も、同じでした。聖書を全て読んで理解をするとか、毎週教会に通うとか、あるいは、罪を悔い改めて、清らかな生活をするとか、そういった条件があるのではないかと思っていました。また、そのような枠の中に入れられるのであればと、聖書や教会がいいものだと思っていても、自らを遠ざけていたような気がします。
しかし、冒頭の聖書の言葉にあるように、神であるキリストの愛は、私たちが知っている愛とは、全く違っていました。「私たちがまだ罪人であったとき‥‥」とあるように、ありのまま、そのままの私たちを無条件に受け入れて下さっていたのです。立派な人物になった時に、受け入れられ、認めてもらえるのではなく、今すでにそのまま愛されているのです。もし、神様から認めて頂くための条件があるとすれば、その条件を満たすことができる人は、ひとりもいないのではないでしょうか。
キリストが十字架で死なれたということは、ご存知の方も多いと思います。聖書によると、それは私たちの罪の身代わりでした。
この聖書の言葉の前には、このようなことが書かれています。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき‥‥」。このような愛は、人にはありません。しかし、神様は、私たちが神様の方を向くことがなく、感謝することがない時に、身代わりとなり、愛して下さったのです。
あるクリスチャンは、信用していた友に裏切られて、事業が傾きました。目に見える全てが灰色に見え、失敗した自分を責め、また裏切った友を責めて苦しかったそうです。その時、学生時代に教会に行ったことがあるのを思い出し、教会の門をたたきました。そこで、牧師から、神様の本当の愛、聖書にある希望を聞くことができました。そして、帰りの電車の中で、視界に鮮やかな色が戻ってきたことに気がついたそうです。窓から見える空や山の色が眩しいぐらいに輝いていたそうです。
私も、このような愛で愛されていることを知った時、重荷が軽くなり、心が晴れやかになりました。自分を責めることもなくなり、人を愛したいと思うようになりました。
グレース神戸バプテスト教会 牧師