兵庫県神戸市西区にあるプロテスタントのキリスト教会です。聖書の正しい教えのご提供と笑顔と喜びのある人生のお手伝いをモットーに毎週日曜日に礼拝を行っております。

聖書と信仰

恐れに打ち勝つ

高い場所に立った時、人前でスピーチしなければならない時、体調が悪く病気を疑う時等、人により恐れを感じる場合は様々ですが、しかし、誰もが共通に感じる恐れのひとつは、失うことに対する恐れではないでしょうか。
持っていたものを失う、愛する人を失う、また、当たり前にできていたことができなくなると、今日よりも明日は、さらに悪くなるのではないかと否定的になり、心が縛られてしまうものです。仕事をしている人は、いつしかそのポジションを失います。リタイヤしなければならない時もくるでしょう。成功を収め、称賛されている時はいいのですが、それを受け続けることは困難で、自分の上にあった称賛や栄誉が、他の人のものになる時があるのではないでしょうか。また、私たちは、確実に年を重ねています、年を取ると言うことは、失うことを意味するのです。体力を失う、聴力や視力を失う、熱意や夢を失う、愛する伴侶や友を失う、そして最後には自分の命を失う、‥‥。年を取ることが避けられない以上、この失う恐怖は、 誰にでも襲ってくるものなのです。

000883ea_090923150355スポーツジムに通っていると、若い青年が筋肉をつけるために、プロテインを飲みながらトレーニングに励んでいる姿をよく目にします。しかし、そのような若者よりも、多くお見かけするのは、70才を越えたであろう方々です。失った体力を取り戻し、健康を維持するために、大変素晴らしいことではないでしょうか。しかし、このような失わないための努力と同じ程度に、いや、それ以上に大切なことは、いつまでも失うことのないものを持っていることではないでしょうか。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。(聖書)

失うことに恐れと不安を感じる私たちですが、この聖書に書かれているいつまでも残るものを持つことができるのです。

最初の信仰とは、信頼できるもの、信頼に足るもののことです。私たちが椅子に座る時、ほとんどの場合、リラックスしている状態だと思います。それは、この椅子は壊れないと信頼しているからです。もし、この椅子は壊れるかもしれないと思っていたら、座っている状態でも足腰に力が入り、リラックスはできないでしょう。
聖書に記されている神様は、この天地を創造し、人間をひとりひとり目的をもって個性的に創造されました。この神には、間違いはなく、全てのことには意味があり、私たちを愛し、導いておられます。人生において予期せぬ出来事が起こったり、何故と思う時がございませんか。また失ってしまうことがあっても、信頼できるこのような神様を知っているるなら、心は、穏やかではないでしょうか。信頼に足るものをお持ちでしょうか。力を抜いて、リラックスできる空間が、すなわち、信頼に足るものが必要ではないでしょうか。その時に、失う恐れから解放されるのです。

いつまでも残る希望も、また失う恐れに対して有効なものです。病院に勤めておられる方が、「早く元気になりましょうね。」と患者さんを励ましたそうです。すると、その方は、こう答えたというのです。「私は、退院しても家族はいないんです。」「退院しても仕事がないんです。」
この方に必要はものは、良い薬だと思います。また優れた治療でしょう。しかし、最も必要なものは、「希望」ではないでしょうか。

学生時代に、配達のアルバイトをしたことがあります。当時は、免許を取得したばかりで、運転も未熟な上、現在のようなGPSのシステムは、まだ自動車に搭載されてはおりませんでした。手書きのメモの地図を渡されて、田舎の方に配達に行くのです。夕暮れになると外灯はなく、真っ暗で、細い道を走っていると、本当にこれでいいんだろうか、行き止まりになったり、山に迷い込まないだろうかと、それはそれは不安でした。さらに雨でも降ろうものなら、その不安と恐れが助長され、手書きのメモが悪いんだ、それを書いた人が、またこのようなアルバイトを選んだことが間違いだと、全てを否定したくなったのです。しかし、経験を積み、この道は大丈夫だ、明るいネオンのある町に繋がっていると分かると、どんなに暗くなっても、雨が降っても、安心することができました。ゴールが分かっているからです。今が、悪く感じても、この道はゴールに繋がっているという安心感は、恐れを払拭するのではないでしょうか。
聖書には、人生の終わりに天国があることが記されています。もし、そのゴールが明確に分かっていれば、例え、今が暗くても、雨が降っても、この道はあの明るい町、そう天国に繋がっていると分かっているなら、恐れはなくなるのではないでしょうか。例え、失うことがあっても、天国という失うことがない希望があるのです。

十字架にかけれているイエスキリストの絵画や彫刻を、どこかで目にしたことはないでしょうか。神の子イエスキリストは、私たちの罪の身代わりとなるために人の姿をとって、この世に下ってこられました。その生涯において何一つ悪いことはなさいませんでした。しかし、十字架で罰を受けられて、血を流し、死なれました。彼は悪いことはしませんでしたから、自分の罪のために死んだのではありません。あなたの罪のために、身代わりとなって死なれたのです。しかし、キリストは三日目に死からよみがえり、今も生きておられます。このことを信じる時に、私たちの罪はゆるされ永遠の天国に入ることができるといういつまでも残る希望を持つことができるのです。この世の命は、いつか失います。今、暗い道や雨が降っている時かもしれません。しかし、ゴールが分かっているなら幸いであり、失う恐れから解放されるのではないでしょうか。

最後に、失うことがあっても、いつまでも残る愛があるのです。人は、誰しも愛されたいと思うもので、認められていたいのです。しかし、これだけの稼ぎがある、これだけの人脈がある、これだけの能力や経歴があると自分にあるもので認められているなら、それを失うことの不安、失った時の絶望感は破壊的となるのです。
聖書の中で、神様がこのように言われています。「私は、あなたが白髪になって歩けなくなっても、私があなたを背負う」。神様は、あなたが持っているものに価値を見い出し、愛しているのではなく、あなたという存在をありのまま愛されているのです。この愛は、いつまでも残る愛なのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。(聖書)

失わないようにと努力することは大切なことです。しかし、それと同じ程度に、いやそれ以上にいつまでも残るものを持っておくことが大切です。

神とは・・・

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

上記の二つの言葉は、聖書に記されている有名なイエス・キリストの言葉の一部ですが、神様がどのようなお方であるのかが分かるのではないでしょうか。

私たちが神について考えることがあるなら、多くの場合、その神は、正しい者を保護し、悪い者には罰を与えるお方であると考えます。そこで、まず、私たちが正しくなければ、神の前にでることができないと思ってしまう傾向にあります。

しかし、病院が病気の人を拒まないのと同じように、神は、不完全な者をありのまま受け入れて下さるのです。また、健康な人が病院を必要としないように、正しい者は、神の助けがなくてもいいのです。罪人にこそ、神は必要なのではないでしょうか。神は、人が完全ではなくても、今のありのままの姿を愛して受け入れて下さるのです。

子供は、ありのままを表現できるのですが、大人になると、社会の秩序の中で生きていかなければならず、物事に適応していくことが求められます。その結果、気疲れなども多いのではないでしょうか。神は、私たちを休ませて下さるお方です。

Open door頭の言葉に「招くために来た」とありますが、文字通り今から二千年ほど前、神はこの地上に来られました。それが、イエス・キリストです。イエス・キリストは、何一つ悪いことをなさいませんでしたが、十字架で私たちが犯した罪のために身代わりとなって罰を受けられたのです。それは、罪人を裁くためではなく、むしろ、罪人を赦し祝福の道へと招き導くためでした。

神とは、どのようなお方でしょうか。神とは、今日、あなたの全てを否定しないで、ありのままを受け入れて下さり、重荷を負って下さるお方です。
そして、「私が休ませてあげます」と、あなたを招いているお方なのです。

人間の心とは

ningen no kokoro towa今年の夏も厳しい暑さで、 熱中症に注意するようにとの呼びかけを頻繁に耳にしました。 その中で、 印象に残ったのは、自分の体が水分を必要としているのに、そのことに気がつかないで、 水分補給を怠り、非常に危険な状態になる場合があるとのことでした。 しかし、これは、肉体だけの問題でしょうか。 聖書によると、 人間は 心も渇くことがあるのです。そして、危険なことは、自分の心が渇いていることに気がつかないで、 潤すことなく、日々の生活を続けてしまうことなのです。 心が渇いている時は、柔軟性がなく、余裕を失っていますから、 人の言葉に過剰に反応し、強く相手に言い返したり、 また 余裕があるときには、軽く受け流せる言葉も、心に深く突き刺さり、大きな痛手となる場合があるのです。 心が渇いている状態は、また、陶器の器を床に落とした時のようです。 柔らかいプラスチック製品は、床に落としても破損することはありませんが、陶器の器が、簡単に壊れるように、潤っていない心は、堅くもろいもので、人生の諸問題にぶつかると簡単に折れてしまうことがあるのです。 問題は何でしょうか。 それは、 心が渇いていることに気がついていないことです。 人格者でも宗教家でも関係がありません。 人の心は渇くことがあり、潤すことなく、 そのまま生きていることが問題なのです。 それでは、 心の渇きはどうすればいいのでしょうか。 どうすれば、心を潤すことができるのでしょうか。

 イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(聖書)

神であるキリストは、わたしのところに来て飲みなさいと言われました。 肉体の渇きのためでしょうか。 肉体のためでしたら、水があります。 心の渇きのために言われたのです。つまり、人間の心とは、渇く時があるのですが、渇いたとしても潤すことができるのです。 ひとつは、キリストが「わたしを信じるものは」と言われたように、信じるものを持つということです。 徳川家康は、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」 と言いました。 誰でも重荷があり、その重荷から不安と恐れが生じ、心が渇くことがあるものですが、 信じる確かなものがある人は、「ああ、大丈夫だ」と心に潤いと余裕を取り戻すことができるのではないでしょうか。また、もうひとつは、 愛されていることを知ることです。 人は 「自分は大切にされている」 と分かると、 心が潤い他の人にも 優しくすることができるのです。 キリストは「その人の奥底から、 生ける水の川が 流れ出るようになる」 と言われました。 ひとりの人の心が潤うと、それは家族や周りの人の大きな祝福となるのではないでしょうか。神であるキリストは、十字架であなたの身代わりとなって死ぬほどに、あなたのことを愛されました。 これまでにも 世界中の多くの人々が、このお方に潤され、 その結果、聖書やキリスト信仰が、福祉や芸術に 大きな貢献をしてきたことは、ご存知か と思いますが、 同じように、あなたの心も潤すことができるのです。 自分の体が水分を必要としているのに、そのことに気がつかないで水分補給を怠り、非常に危険な状態になる場合があるとのことでした。 しかし、皆さん、これは体だけの問題でしょうか ‥‥ 。

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